1つ前のページへ

ゴルフ偉人伝【ボビー・ジョンズ】

ゴルフに対する誠実な姿勢から、男子ゴルフ界の「球聖」と称された「ボビー・ジョーンズ」。そんな彼の「ゴルフ偉人伝」を、ぜひご覧下さい。

病弱だった少年が「球聖」と呼ばれるまで

病弱だった少年が「球聖」と呼ばれるまで

1902年3月17日、アメリカのジョージア州アトランタ市に生まれたボビー・ジョーンズ(本名ロバート・タイアー・ジョーンズ・ジュニア)。

生まれつき病弱で、5歳まで生きられないと言われる程でした。そこで、弁護士でゴルフ好きでもあった父親は、健康のためにジョーンズをコースに連れて行きます。

のちに「球聖」と謳われる少年が、初めてクラブを握った瞬間でした。才能はみるみる開花。6歳で初めての優勝カップを手にします。14歳のときには、全米アマチュア選手権に初出場。期待の新星として、アメリカ男子ゴルフ界の注目を集めます。

一方で、父親譲りの頭脳を活かして勉強にも励み、ジョージア工科大学の機械工学学士号とハーバード大学の英文学学士号を取得。その後は競技ゴルフに参加しつつ、本職の弁護士業務にも精を出しました。

アマチュアとプロの力の差が現在ほどなかった当時、アマ選手だからといって特に注目を集めることのなかったボビー・ジョーンズ。

彼の名が一躍轟いたのは、日本男子ゴルフファンでも知っている、1925年の全米オープンでの「1打罰」。ペナルティーを自己申告したことで勝利を逃すも、そのフェアプレー精神を「優勝より尊い」と讃えられたのです。

若さゆえのあやまちとパーおじさんとの出逢い

若さゆえのあやまちとパーおじさんとの出逢い

アメリカ男子ゴルフの誉れとも評されるボビー・ジョーンズですが、若い頃はなかなかの荒くれ者だったと言います。

1921年の全英オープンでは、初挑戦となったセントアンドリュースで独特のコース設計に手こずるあまり、スコアカードを引き裂いてプレーを棄権。その暴挙に、スコットランドの観衆は「あれが、アメリカ男子ゴルフが期待する若者か」と落胆したと言います。

さらに同年の全米アマチュアゴルフ選手権では、クラブを放り投げる醜態を晒します。しかも、そのクラブが女性ギャラリーの足にあたり怪我を負わせてしまいました。この行為により、全米ゴルフ協会から出場停止が通達されます。

ジョーンズは自分を見つめ直しました。そして、ゴルフの本質に気付きます。「ゴルフとは、誰かとの争いではなく、コースにいるオールドマン・パー(パーおじさん)を相手にすることなんだ」と。つまり、ゴルフは自分との闘いであるとジョーンズは悟ったのです。

1923年以降、全米オープンを皮切りに、「カラミティ・ジェーン」と呼ばれるL字型パターを駆使して破竹の勢いで勝利を重ねたジョーンズ。1930年には年間グランドスラムを達成。

そしてその約2ヵ月後、28歳の若さで競技ゴルフから退いたのでした。

ジョーンズが蒔いたゴルフ愛の種は今も…

ジョーンズが蒔いたゴルフ愛の種は今も…

引退しても、ジョーンズはゴルフと良き親友であり続けます。そこで、「共にプレーした名手たちが一堂に会する大会を作りたい」と考えました。それにふさわしいコースとして白羽の矢が立ったのが、故郷ジョージア州のオーガスタ。

コース設計は、アリスター・マッケンジーに依頼します。と言うのも、マッケンジーが設計したサイプレス・ポイントGCでプレーした際、自然を活かしたコース造形にジョーンズが惚れ込んだからです。

そうして作られたオーガスタ・ナショナルGCは、現在世界最高のコースと讃えられます。しかし、ジョーンズにとって最も思い入れ深かったのは、一度は苦杯を舐めさせられたセントアンドリュースだったようです。

両者の間には特別な絆があり、1971年12月18日ジョーンズが永眠した際は、セントアンドリュースのクラブハウスでフラッグが下げられ、哀悼の意が表されました。

全国のゴルフ場・ゴルフ練習場をお探しの方はこちらへ

ケータイ版・スマートフォン版「ホームメイト72GOLF」への
アクセスはこちら

ケータイ版ホームメイト72GOLF
スマートフォン版ホームメイト72GOLF

ページの先頭へ