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ゴルフ偉人伝【ベン・ホーガン】

死の淵からの復活を果たし、アメリカ男子ゴルフ界の伝説となった「ベン・ホーガン」。そんな彼の「ゴルフ偉人伝」をぜひお楽しみ下さい。

孤高のプレーヤーとして誤解されていたキャリア初期

孤高のプレーヤーとして誤解されていたキャリア初期

現役時代はおろか、歴代でも最強との呼び声が高いホーガン。彼のキャリアピークは、1940年代の後半です。

1946年に年間最多勝となる13勝、1948年にも最多勝となる10勝をマークします。しかも、往年の名選手バイロン・ネルソンやサム・スニードと争っての結果です。ハイレベルな闘いの中、冷静沈着に最善手を打っていくホーガンに対し、「鉄人」「アイスマン」「ザ・ホーク(鷹)」という愛称が付けられました。

しかし、この愛称にはいささかの皮肉も含まれていました。バーディーを取っても喜ばず、同伴プレーヤーとも会話をしないホーガンに、アメリカ男子ゴルフの観衆たちは実力を認めながらも、「冷たい人間」と感じていたのです。

冷静な感情を生んだ少年時代の辛いできごと

冷静な感情を生んだ少年時代の辛いできごと

ホーガンはなぜ感情を押し殺すようになったのか。その理由は幼少時代にあると言われます。

ホーガン家はアイルランド移民を先祖に持ち、決して裕福とは言えない家柄。ホーガンも、貧しい鍛冶屋の息子でした。しかも、9歳のときに、ホーガンの目の前で父親が拳銃自殺。

家庭を支えるためにホーガンは11歳で、グレンガーデンCCのキャディになります。同僚には、のちのライバルとなるネルソンがいて、互いにプロでの活躍を誓いました。

19歳でプロ入りしたホーガンですが、すぐに壁にぶつかります。身長185cmのネルソンに比べて、ホーガンは174cm。体格というハンデを克服するためにも、ホーガンは毎日6時間休まずボールを打ち続けました。マメの上にマメをこさえる猛練習で、グリップは血でべったりだったと言います。

過酷な練習の末、ホーガンは武器を手に入れます。それは機械のように完璧なスイング。「私はクラブフェースの3つ目の溝で打つようにしている」という言葉が、彼の精密なクラブさばきを物語っています。

1938年、25歳でダブルス戦ながら初勝利を挙げると、1940年には4勝、翌年には5勝をマーク。1943年から従軍による空白期間を経るも、除隊後はわずか3年半で全米オープンを含む37勝を記録しました。

そして迎えた1949年。アメリカ男子ゴルフ界を震撼させる悲惨なニュースが飛び込みます。

悲劇を乗り越え、語り継がれる伝説の選手に

悲劇を乗り越え、語り継がれる伝説の選手に

あるとき、助手席に妻を乗せたホーガンの車に、対向車線をはみ出した10tバスが正面衝突しました。

ぶつかる瞬間、ホーガンはとっさに助手席の妻に覆い被さりました。そのおかげで妻は奇跡的に軽症。引き換えにホーガンは、足首や肋骨の骨折や内臓の破損など、競技人生どころか命さえ危うい事態に陥ったのです。事故の状況を聞いたマスコミは、死亡記事を用意した程と言います。

しかし、ホーガンは不屈の精神で一命を取り留めます。それどころか、7ヵ月後にはクラブを握り、11ヵ月後にはゴルフトーナメントへも復帰。裏に血の滲むような努力があったことは言うまでもありません。

カムバックを果たしたホーガンへの拍手には、「妻をかばった」という行為への賞賛も込められていました。「冷たい人間」とのイメージが誤りだったことを観衆は認め、心からの敬意を払ったのです。英国の時計台になぞらえ、「ビッグ・ベン」という新たなニックネームも生まれました。

1950年、1951年と全米オープンを連覇したホーガン。1953年にはマスターズと全米、全英オープンの3冠に輝き、男子ゴルフの歴史に「ベン・ホーガン」の名を刻みます。

同一年に3つのメジャー大会を制した偉業は、2000年にタイガー・ウッズがタイに並ぶも、いまだ破られていないアンタッチャブルレコードです。

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